旅MAP/CineMAD

「CINEMAD 旅MAP」前院長 東和義の原稿を掲載しております。

☆2016年2月号「痛みとPTSD」

 その部位やタイプを問わず、体の「痛み」を訴えて医療機関を訪ねて来られる患者さんを診る場合は、その原因が多様であることを事前に、十分に理解しておかなければならない。切り傷、擦り傷、骨折などの外傷はもちろん、消化管潰瘍の痛みもあれば、癌性疼痛、腰部脊柱管狭窄など神経障害性疼痛や帯状疱疹後神経痛、心筋梗塞などの虚血性病変による疼痛…と多種多様な「痛み」があって、当然ながら、それぞれに異なる対処方針がある。従って、まずその「痛み」が何によるものか鑑別しなければならないことから、さまざまな検査を選択して行うのである。診察、問診を経て、想定される原因を念頭に、レントゲン検査やCT検査、MRI検査、内視鏡検査、血液検査、尿検査、便検査などを上手く選び、時に複数を組み合わせる必要がある。ここで忘れてならないのは、まるで“幽霊”のような「つかみどころのない痛み」だ。例えば骨折の傷も癒えたというのに、どんな痛み止めの薬を使っても全く効果がないような場合。このような時に疑われるのは外傷後ストレス病(PTSD)のような“痛み記憶”である。肉体は治っていても、脳の中の痛みの記憶が痛みを感じさせているである。病気の発症やその際に経験した強い疼痛や病気による今後の不安が、脳の記憶となって、常に痛みがあるものと勘違いさせるのである。 これは患者さん自身にも思いつかない原因であることが多いようだ。多くは痛み中枢に作用する薬物治療が著効して初めてPTSDが原因だったと気づき確信するのである。これを逆に見れば、すなわち逆手にとって事前に対処すればいかに大きな外傷であっても、麻酔などで痛みを感じないよう処置しておけば、患者さんの脳には痛みが記憶されないで済むため、PTSDが発病しないという予防策もとることができるというわけだ。考えてみれば当然すぎるほど当然である。まだ麻酔薬がなく歯をくいしばって手術を受けることを余儀なくされた時代には手術自体が困難であったことを思い起こせばよいのだ。痛みに耐えかねて失神しただろうし、術後も痛みに苛まれただろうと容易に想像できる。それにしても、私たちの脳は実に繊細であり、同時に極上の制御器官である。ともあれ治りきらない痛みを感じる方は、一度、PTSDの可能性を疑って再検査を受けてみる必要があるだろう。 その部位やタイプを問わず、体の「痛み」を訴えて医療機関を訪ねて来られる患者さんを診る場合は、その原因が多様であることを事前に、十分に理解しておかなければならない。

 ★分別界と無分別界
  NHKの番組を見た。人が動物や植物を殺生することは分別界では悪とされている。しかし、この「無分別悪」を行わなければ、人は生きてはいけないので、必要最低限度の殺生は善なのである。 同じように武家社会では、武士が人を殺めることは悪であるが、主君に対する忠誠を守るために刀を抜くのは分別ある善なのである。つまり、分別界の中に無分別界が内在しているというのである。 これは、西欧的分別の在り方、さまざまな法律に従うという分別、グローバリズムを契約によって運用することの分別性などへの信頼に対するアンチテーゼのようなものであると私は思った。 確かに現代において西洋式分別界である自由主義や平和主義は名ばかりで、現実には“二枚舌”であり、所得格差だったり教育格差が世界中に蔓延している。戦争が絶えたことはなく、イスラム国などによるテロや暴力、紛争などが次々と発生している。 これは、直感的に自覚することのできる過大すぎる格差や差別を生んだのは西洋先進国の分別が原因である?と、多くの人が考え始めたことを示唆しているのかもしれないのだ。分別の限界とでも言うべきか、やはり、無分別界の直感的善悪判断を考えの中に入れて、世の中の状況を無心直感的に見直さなければならないのではないか。 故スティーヴ・ジョブズは「分別界と無分別界」を学んだことが革命的パソコンやiPadを発明するきっかけになったと聞いている。自らが感じたままに事象を受け入れ、行動し、さらに次の段階で感じるままの善なる方向へ進む?という永遠の繰り返しの努力が「無分別界」というものではないか?と私は感じたのだ。「無分別界」は勝手気ままに悪事を行ってもよい世界だと言っているのではない。 私は思う。「分別」の何たるかを知らない子供たちには、分別界のことを学ばせるべきであると。そうでなければ、さらに難解な無分別界を大人になって学び続けることなどできないからである。 子供にとっての無分別と、大人に求められる無分別とは明らかに異質のものだから、野放図でよい?というのでは決してない。

★開業10年を迎えて
早いもので、開業して10年が過ぎようとしている。今年は桜の開花が遅いようなので、4月に入ってから猿狡川の岸辺の桜をクリニックの窓から眺めることになりそうだ。  10年前は、医療崩壊や経済失速の渦中で、新規開業する医師は多くはなかった。そんな時に開業するのはどうかという空気もあったのだが、私は当時50歳、もう待てないような年齢になっていた。  放射線科専門医として大学や公的病院に25年間、勤務してみて、患者さんのお悩みを直接お聞きしたり、病状を直接ご説明したりという医師としては当たり前のことが放射線科勤務医では十分には行えないという何か物足りなさを感じていたのだ。CTやMRIの画像と格闘して診断をつけ、レポートを書き、主治医に説明するというのも、それはそれでたいへん骨の折れることであるが、なんと言っても患者さんに直に説明することに比べれば緊迫度が軽い。患者さんに向かう時には、理路整然とした診断をつけていなければならないし、下手に迷ってもいけない。病気の原因が完全に分かっていなくても、患者さんの病状が如何に深刻なものであるかということについて分かりやすくご説明しなければならない。そして、これからどのようにその病状に立ち向かうべきなのか、その“行く末”をある程度はっきりとさせなければならない。そのような人間的な接触から離れて、勤務医を続けることに対しての物足りなさであったように今は思う。  いざ開業してみると、患者さんにご説明することが想像以上に大変であるとともに、患者さんからの感謝の言葉をいただいて感じる「喜び」も大きいということがよく分かった。初診の際に、患者さんの訴えに耳を傾けて、その症状に合わせてエコーやレントゲン、CT、MRI、血液検査などの組み合わせを考え、実際の検査計画を立て、技師や看護師に検査内容を指示し、その後にやっと検査データが出るのである。  そこからは私の得意分野。画像をくまなく観察し、異常所見を拾い、診断に取りかかる。最も疑わしいのは何か、次に考えうる病気は何か、それらを十分に区別できているか、専門病院への紹介が必要か…などの事柄を整理する。そして、その後に本番が待っている。患者さんに立ち向かうのである。病気に立ち向かうのではなく、まずは人に向かう―。病気が勝手にそこにあるのではなく病気を保有しているのは患者さんであるからだ。ここが本当に重要な点で、それまでの自分は病気の診断で終わっていたのだと気づかされた。  今、マスコミや行政、医師会までもが医療のIT化を推進している。そのこと自体に私も反対はしない。現に私のクリニックでは「レセプトコンピュータ」が稼働しているし、CTやMRIはデジタル画像でありITの固まりのようなものである。しかしながら、検査画像やデータをコンピュータでやり取りするだけで患者さんの検査や診察、説明などの現場に立ち会わないでも済むようなことになっている点は大問題であると私は思っている。  電子カルテや画像データに向かうだけの業務を推進すれば、子育ての都合などで病院に行けない主婦医師がホームオフィスで仕事ができるので、限られた医療資源が活用されるという点ではいいのだが、誰も彼もがホームオフィスをしようとすれば医療現場に立つ医師がいなくなる。困ったことである。現にこのような傾向が放射線科診療では出かかっているのだが、行政の側はそのことに気づいてはいないようである。高度な検査も高度な診断も、患者さんに理解していただいて初めて「価値」がある。そこのところにもっと注目を集めなければならない。  これからも私はITを利用するのだが、ITや診療データは患者さんのために利用してこそのものであるのだから、いつまでも患者さんの前に立たせていただくという診療形態を変えるつもりはない。

旅MAP/CineMAD 2012年3月号 ★脳と人間の行動
人間の行動には、半分は反射的な行動と、脳で考えて(受け止めて)から行う行動とがある。「反射的な行動」というのは刺激が脊髄に伝達されてそのまま運動神経に反射する行動で、本能的な行動ともいえる。行動というよりも運動といった方がふさわしいようだ。  もう一つは脊髄から脳に伝わり、脳でさまざまな処理をしてから運動神経に戻っていく行動である。これこそ人間的な行動である。  この場合、人はたくさんの経験を元にして考え、どのように対処するのが安全か、得策か、より楽しいかなどを、意識的、あるいは無意識のうちに考えるのである。「考える」ということ自体が意識的なようだが、無意識のうちに考えるということが実際にあるのだ。  近年の脳科学によると、さまざまな出来事や刺激に対し自分の態度を決めるにあたって、人の脳は少なくとも3カ所で考えている―という。一つは前頭葉にある領域で、ここは物事を前向きに捉える領域。もっと楽しく、もっと幸せになるよう反応する、いわば促進系である。  もう一つは、扁桃体と呼ばれる脳の深部にある領域で、ここは何かにつけて後ろ向きに捉える傾向にある部位だ。恐怖体験、良くなかったり楽しくなかったりした経験を蓄積し安易な、ひいては危険な行動を抑制するように作用する。  もう一つは側頭部にあるA5領域と呼ばれる、前向きと後ろ向きとを調整する役割を果たすところ。この3カ所がバランスよく働いてくれるので、人はストレスに耐えることができる。また、楽しいことも苦しいことも全て記憶していられる。  たとえば今、とても堪え難く辛い状況に立たされたとしよう。それは健康問題でもよいし金銭の問題でもよい。家族関係や人間関係でもなんでもよい。辛く、苦しく、解決方法が見つからないような立場に立った時、正常な脳であればこの3カ所がバランスよく全部が活動する。  ところが、「うつ病」では促進系の脳があまり働かずに、逆の抑制系が強く働いてしまうため、困難な状況に立ち向かうことができない。一方で、促進系が異常に強く働く場合も問題があり、なんでもかんでも受け入れて“イケイケ”の状態になってしまう。また、抑制系と促進系とが入れ替わり立ち代わり脳を占拠してしまうと「そううつ病」になる。  これら3カ所のどこかが弱ることにより、いろいろな病気になるのである。病気の種類によって治療薬は異なるが、弱まっている部位の神経活動を活性化すると傾いたシーソーが元に戻るようにバランスのとれた脳活動となり、高度のうつ病などで苦しんでいる人の福音となることができるようである。また、弱まった部位に磁気刺激を加えると、それが神経の電気活動に変換されプラスとマイナスのバランスがとれる―とも言われている。  また、自分の能力が極端に劣っているというコンプレックスを持つ人には、その人の実際の活動データをしばらくの間、記録してもらって、それを客観的に評価し、他の人とは大差ないことを受け止め、行動するという認知行動療法なども行われている。私たちは普通は、私たち自身が自分の心で受け止め、考えて行動していると思っているのだが、それにはそれ相応のメカニズムに従わせられているようである。  極端に言えば骨や皮膚がどれほどの痛みを発しても、脳がそれを痛みとして受け取らなければ「痛い」という実感はなくなる。理論的には、訓練すればするほど悩みも悩みではなくなって、煩悩が消え去るのかも知れない。が、なかなかこのような境地に立つのは難しそうだ。私たちは機械や薬物に依存して生きているのでもないし、依存したくもない。しかし、心の問題は現代の大問題となっているのだから、自分や家族がそうなった時には、このような科学の力を少しは借りなければならなくなるかも知れない。

旅MAP/CineMAD 2012年2月号
★主治医の第一次医療 病気にはさまざまなレベルがありそれぞれに適切な診療・医療態勢がある。それは大きく3つに分かれ、患者さんと向き合っている。  まず《第一次医療》は「健康に関し何らかの問題を感じている人を診察する」もので、いわゆる“かかりつけの病院”、主治医である。これには、診断・治療だけでなく予防も含まれており、健康と医療の両面から地域の人たちをサポートする。  そして《第二次医療》は「中規模、大規模病院で行われる病棟医療」で、重い症状の患者さんに対しての投薬管理や外科的治療を行うもの。総合病院などがこれに当たる。  さらに《第三次医療》は「大学病院や専門医療施設で行われる専門的な治療」を指す。かなりの重病や難病の患者さんを対象に大学病院などの専任教授や医師、スタッフが担っている高度医療である。  これまでにも本欄で何度かふれた「プライマリーケア」は、このうちの《第一次医療》であり、私たち開業医の多くが担うべきものだと言える。ここで重要なのは、まず患者さんをしっかり診察し、検査し、診断することである。例えば、頭痛を訴える患者さんを診る時、単なる風邪か、血圧や血管の不調による偏頭痛なのか、それとも脳腫瘍によるものか…と、さまざまな原因が考えられる。頭痛以外の症状や患者さんの表情、顔色、生活環境などなど、あらゆるデータを考察したうえで、必要かつ最適な検査を行って原因を絞り込み診断、治療するのである。  もちろん、医師にはそれぞれ専門分野・得意分野があって、診断結果が“守備範囲”を越えると考えられる場合には、他の専門医や第二次医療機関にご紹介しバトンタッチする―という判断を求められる。この時に大切なのは、守備範囲内だけで診断するという安易な方法を選択しては間違った治療へと進むことになり、ひいては手遅れにつながる危険性をはらんでいることを医師は自覚する必要があると思っている。  素早く、かつ万全を期して的確に診断することこそプライマリーケアの第一歩であり、医療人が連携して全面的に診療することが最終目的である。これは元々、イギリスで確立された『ファミリードクター制度』を参考にしたもので、「年齢を問わず、診療科目にとらわれず、全科目的な診療を行う」ことを目指して2004年ごろから進められてきて、少しずつ日本の医療界に浸透している。  その一方で、医者の卵たちの修業方法や病院の診療態勢がより専門化・細分化している実態があることも事実だ。本来なら顔を突き合わせて診断にあたるべき大病院の診察医と画像診断医が、IT化の流れの中で遠隔通信による分業化を進めようとしている例もある。過疎地や離島、無医村での診療を補完する遠隔診療ならまだしも、都市内でのことだ。医療は入試の採点をコンピューター化するのとは訳が違うのに。さらに専門医がいなくなったという理由で診療科目を減らした“総合病院”も1つや2つではない。そんな寂しい環境の中でプライマリーケアを実践していくには、かなりの覚悟と努力が必要だと実感している。  私のような放射線科の開業医は、患者さんと顔を合わせて病状を聞きながら診察し、病歴も頭に入れて、あらゆる可能性を思い浮かべながらCT、MRI、X線などから最適な検査機器を選んで駆使し、詳細かつ正確な画像診断を経て診断を下す。そして患者さんに分かりやすく説明して治療方針を決めていくのが役目だと思う。そのためには、頭の天辺から爪先まで、あらゆる診療科目について最新の知識や医療技術を学び続けながら患者さんと向き合う姿勢が必要なのは言うまでもない。  不安を抱えて病院の扉を叩く全ての患者さんに「安心してください」と言いたい、不安のタネが膨らむ前に健康への道を話し合いたい―そんなプライマリーケア、第一次医療での主治医になるために開業して、今年4月で10周年を迎える。

旅MAP/CineMAD 2011年7月号 1107/
「欲」について 最近は、『欲』というものが大きくなったように感じる。ほぼ2年近く、歩行も仕事も出来ないくらいの時間を経て、1年前から歩けるようになり、30分程度の外出なら杖を持たなくてもよくなり、仕事もだいぶ出来るようになった。本当に有難いことである。  もう自分の足で歩くことが出来ないのではという焦る気持ちから頑張って訓練すると、痛みの発作に襲われ2倍にも3倍にもなって“しっぺ返し”を食っていた。いっそ足を切り落として痛みを感じる部分をなくしてしまえば以降はリハビリにも力が入るのに…とさえ思ったこともある。  しかし、今となっては足を失わずに済んで本当に良かった、と思う。まだまだ痩せ細った足だが、私の足は私の体重を支え、たとえ近距離であっても私をそこまで運んでくれるのだ。痛みはほとんどなくなったが、無理をすると痛みが出る。  今では、もっと歩行距離を延ばして気持ちよく行動したい―と、『欲』が大きくなっている。リハビリ担当者が懸命に私の足をマッサージしてくれ、筋肉が強く、大きくなるよう努力してくれる。足の痛みは制御可能になってはいるものの、今度は長年の運動不足から股関節やでん部の筋肉が萎縮し、イスに座る時に痛みが出てきた。肛門周囲の“できもの”が2度もでき、専門の先生のお世話になった。座って仕事をする時間が大幅に増えたのが最大の原因だが、それに見合うだけの筋力や体力はまだまだないらしい。体がそう私に教えているのだろう。運動不足になれば筋力が衰え、いろいろな障害になるということは百も承知だが、実際にそうなってみないと実感しない。  一時期は食欲というものがまったくなくなり、全てのものが“臭く”感じていた。今は嫌な匂いは感じなくなったが、心底からの空腹感と食欲はない。あれが食べたい、これはどうか…目の前にそれが現れると一も二もなく手が出て口に入れ、あっという間に食べ物がなくなるといった、元気だった頃の食欲はない。  病気になってから20㌔も体重が減り放っておくともっと痩せてしまう傾向にあるから、「食欲を我慢する」という苦痛はない。現代人の多くは食欲との闘いをしているわけだが、私は食欲を取り戻そうとしている。両者は互いに羨ましいと思っているのだが、分かり合えることは少ないのではないだろうか。両方を足して二で割ればちょうどいいのに…。  実はもっと仕事をしたいのである。私のクリニックを選んでくださる患者さんは、脳梗塞や認知症、動脈瘤、各部位の癌などを持っていたり、そんな病気の可能性が高い方が多く、当院の検査結果次第では大病院へのご紹介となることも多い。そうした患者さんの検査の際には、診断とご説明にとてもたくさんのエネルギーが必要である。患者さんは寄る辺ない自らの身が岸辺を離れようとしている間際なのであるから、さまざまな不安に陥ってしまうのだ。そのような時であるから担当医は全精力をもって診療に臨まなければならないし、とりあえずは患者さんの不安を全て肩代わりしてあげなければならないのだ。真に患者さんの苦悩を肩代わりすることは、言うまでもなくなかなかできないことではあるのだが不安や見通しなどまで口に出すことが必要なことなのであろう。その不安を受け止めることが大切なことであると思っている。  私の専門領域は「画像診断」。味も素っ気もないデータの山を画像にして見ているだけの、つまらない仕事―と言われるかもしれない。が、確かに、画像にはウソがなく、実に厳しい面もある。だからクールに画像を評価することもたいへん重要である。  しかし、患者さんの発する言葉や声のトーン、苦痛や苦悩の表し方の中に画像だけでは分からないことがかなり多い。われわれ画像診断を専門とする者は、医師であり、それなりの知識も持っているはずである。だから「画像しか見ないような専門医」であってはならないし、特に、画像診断の結果を患者さんに対面して、きちんとご説明することがとても大切である。昨今は画像診断を専門とする医師がまったく患者さんの前に出ない―という風潮であるが、少なくとも自分はできるだけその風潮に抵抗したいという『欲』が最近ふつふつと湧いている。

旅MAP/CineMAD 2009年9月号

膵臓癌は忘れた頃にやってくる 小さなクリニックの当院で最近3人もの『膵臓癌』が発見された。とんでもない多さであるが、以前から通院中の患者さんのカルテをめくってみても、ここ1、2年は頑固な腹痛や下痢などを訴えてはいなかった。糖尿病があったり軟便だったりはしたが、飲酒にともなう慢性膵炎のような軽度の症状だった。しかし急激に痩せたり背部痛や下痢などを訴えたりしたためCT検査を行うと、4㌢程度の進行癌が見つかるのである。自覚症状が出た時にはすでに“進行癌”である。  自覚症状が出るよりも前に2cm以下の「ステージ1」段階での発見に努めなければならない。当院のようにCTやMRIを導入して積極的に膵臓癌の画像診断を行っている医療機関でも、より早期の膵臓癌の発見が難しいのであるから、問題は深刻である。  膵臓癌の年間発生患者数と死亡患者数はいずれも24,000人程度で、癌死亡者数の中では男性が5位、女性が4位である。決して少なくはない。年齢が50歳を超えると発生数が激増する。最も多い年齢層は80歳代である。  発見される癌腫瘍の大きさは、2~4cmが最多で48%、4~6cmが25%、6cm以上が10%、2cm以下が10%だ。腫瘍径2cm以下の手術成績は2年生存が70%で、2~4cmの場合には60%、4~6cmだと急に減って35%になる。予後がたいへん悪い病気である。  アルコール性慢性肝炎、糖尿病などで薬物療法を行い、経過観察中だった男性患者さんの場合、節制のおかげで糖尿病や肝炎の経過も良好だったため特に定期的なCT検査をお勧めせずにいたところ、下痢と腹痛に苦しまれ、さらに糖尿病検査値の悪化が見られたためCT検査を行うと4cmの膵臓癌が発見された。すぐに手術を外科に紹介したが、根治的治療は不可能であると言われている。広島市の住民検診なども積極的にお受けになる、病識のある患者さんだったので安心していたが、もっと積極的にCT検査をお勧めしておけば…と悔やまれてならない。  膵臓癌の検診はたいへん困難であると言われる。メタボ検診や職域検診、住民検診などでは膵臓癌の早期診断に結びつく検査はなく、膵臓超音波検査も散発的には2cm以下の膵臓癌が見つかってはいるものの、実際のところはほとんど診断が困難である。最近流行のPET検診でも膵臓癌の診断は困難を極める。かといって造影剤を使ったCT検査を多数の無症状の患者さんに行うには費用面や造影剤使用のリスクなど問題点が多い。腫瘍マーカー検査は、進行癌の診断には有用でも、まだ小さな膵臓癌の診断には役に立たないことが多いのである。  では、手術可能で予後もよい段階の膵臓癌をどうすれば発見できるだろうか。リスクファクターを考えれば50歳以上の患者さんで下痢や軟便のある方には、まず「腹部CT検査」を受けていただき、異常がなければ半年ごとに膵臓を中心とした「腹部エコー検査」を忘れずに行うことが必要だろう。下痢や軟便が持続するようなら、年1回のCT検査をお勧めすべきである。また糖尿病の検査値が理由なく悪化する時や、腰痛で整形外科にかかっているが治りが悪いというような時には、必ず腹部CT検査を行うようにしなければいけないと自戒している。  実際の診療現場では、費用のことや検査が煩わしいこともあり、なかなかそう頻繁にはお勧めできないのも事実である。“最悪のシナリオ”を発見する検査であるが、手遅れにならないよう放射線科専門医としては是非とも早い検査をお勧めしなければならない―と思っている。  天災ならぬ《膵臓癌は、忘れた頃にやってくる》のは偽らざる現実であるが、胃癌や大腸癌のように早期発見が可能で、早期治療により根治可能―と言えるような膵臓癌治療の状況に一歩でも近づかねばならない。

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